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ユーディット・シャランスキー『奇妙な孤島の物語 私が行ったことのない、生涯行くこともないだろう50の島』【私の推し本!】

更新日:2022年7月22日

春から始まった「私の推し本」コーナー。春・夏・秋・冬、シーズンごとにテーマを決めていろいろな人の“推し本”を紹介していきます。2021年夏のテーマは「旅」。旅の終わりは、この本で。


●本を紹介してくれる人●

本活倶楽部

藤田優里子(ふじたゆりこ)



 今度の休みにはどこに旅行しよう――

 無意識のうちに、私たちは自由に旅できることが当然のように感じている。コロナ禍に見舞われてからは国内でさえ移動するのが難しくなったが、それでも、しばらく辛抱すればもとの暮らしが戻ってくると信じている。そう思えるのは、日本という自由な国に生まれ育ったからにほかならない。同じ時代を生きていながら、まったく別の景色を見ている人たちがいる。

 著者は1980年に旧東ドイツに生まれ、海外はおろか故郷の外にも出ることのないという子供時代を過ごした。彼女は地図に心惹かれ、地図帳を指でなぞっては見たことのない国や街を想像したという。東西ドイツが統合されて東ドイツという国が消えてしまったあとも、地図をとおして世界を感じてきたその肌感覚は失われなかった。そして「島は小さな大陸にほかならず、大陸もまた大きな大きな島にほかならぬのではないか」と気づき、世界の縮図としての「島」に魅入られていく。

 本書では著者が「行ったことがない、生涯行くこともないだろう」絶海の孤島ばかり、50の島が精密に描かれ、その島の歴史や地理、そこで起きた事件やエピソードあるいは何もないということさえをも糸口として物語が語られる。それは単なる事実でも小説でも、詩でもない。「現実が虚構となり、虚構が現実となる」どこか幻想的な物語だ。

 この世界は目に映るものだけから成り立っているのではない。事実が客観的に記されているように思える地図でさえ、そこには大きな虚構がひそんでいる。一方で、その場所に行ったことがなくても物語を書くことができるのだ。心のなかにしかない場所を訪れること、他者の目を借りてものごとを見つめること、それを「旅」と呼んでもいいのではないだろうかと思わせられる作品である。

 最後に太平洋に浮かぶラット諸島のひとつ、セミソポクノイ島の項を引用する。本書は見開きのページの左側に島の地形図とその島を中心とした世界地図、右側に緯度や経度・面積・言語などの情報と物語という構成になっている。


セミソポクノイ島


 セミソポクノイ――まるで魔法の呪文みたいな名前だ。ロシア語由来の名前だけれど、アメリカの領土。このへんがアメリカ合衆国の最西端にあたるのかもしれないが、厳密に知りたいと思う者は誰もいない。なにしろここには大事なものがなにもないのだ。人間はいまだかつて住んだことがない。住む理由もないのである。ごく稀になにかの専門家が訪れて、石を集めたり、火口を測量したり、山々の連なるさまを映画を見るようなパノラマ写真に撮っていったりするだけ。ホッキョクギツネが下生えのなかをとことこ走り、めずらしい来島者をじっと見つめる。未知のものを怖がらない。その冬毛は、まじりけなしの深い青だ。

 7つの丘の島、という意味のセミソポクノイは、数珠から飛び出した丸い珠、2つの大陸を結ぶゆるい鎖のひとつはずれたピースである。アメリカ大陸という〈新世界〉よりもずっと後に探検された、こここそがほんとうの奥地。

 環太平洋火山帯のこのあたりでは、人間がほとんど気づかないところで、地球がひとり言をいっている。人間がいないから人間を脅かしもしないけれど、しょっちゅう噴火が起こるのだ。ケルベルス山、つまり〈冥府の番犬〉がなかでもっとも活発である。3つの峰をしたがえ、まばらに草の生えた山地を見張っている。四六時中雲に覆われている空が、その山肌を紫色に染めあげる。2、3の火口がときたま小さな噴煙をあげるが、ひょっとしたら、それも峰に垂れ込める雲なのかもしれない。


プロフィール

ユーディット・シャランスキー

1980年、旧東ドイツ、グライツスヴァルト生まれ。作家、ブックデザイナー。文・地図作成・装幀(ドイツ語版)のすべてが著者の手による。本書(ドイツ語版)により、2009年に「もっとも美しいドイツの本」賞、2010年に「ドイツデザイン賞銀賞」を受賞。また、二冊目の邦訳『失われたいくつかの物の目録』細井直子訳(河出書房新社)は、2021年の第7回日本翻訳大賞を受賞。


推し本情報

タイトル:『奇妙な孤島の物語 私が行ったことのない、生涯行くこともないだろう50の島』

著者:ユーディット・シャランスキー著 鈴木仁子訳

出版社:河出書房新社 2016年2月発売



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